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写真事始め

小中高大を通して、写真やカメラについて特別な興味を持つことはなかった私が、撮影やプリントについて学ぶ必要に迫られたのは、就職した広告代理店で、写真関係の企業を担当したからでした。
クライアントは小西六写真工業株式会社、今のKONICAMINOLTA でした。

社会に出た昭和46 年、1971 年当時、写真業界は国内では老舗の小西六写真工業と富士写真フィルム、アメリカのイーストマン・コダックやドイツのアグフア・ゲバルトなどがあり、製品としては「さくらカラー」、「フジカラー」、「コダカラー」、「アグフアカラー」などのカラーフィルムが売り上げを競っていました。

私が担当したのは小西六写真の関係会社で小西六商事という販社でした。ここではさくらカラーフィルムの拡販のため、アマチュアカメラマンを招いて開催する「モデル撮影会」がたびたび実施されていて、私の担当は開催現場の設営や招待者の受付、終了後の撤収までの進行管理でした。

KONICA

そこで撮影会の模様を記録するため使ったのが小西六のカメラで「KONICA C35」、愛称は「ジャーニーコニカ」。このカメラは当時旅行ブーム旅行を引き起こした国鉄のキャンペーン「DISCOVER JAPAN」の影響もあり、コンパクトで高性能ということから大ヒット商品となつた小型カメラです。まさに私にとって写真への入門機でした。

以後、コニカは画期的な製品を続けて発売、1974 年にはフラッシュ内臓のジャスピンコニカ、さらに1977 年には世界初のオートフォーカスKonica C35AF、愛称ジャスピンコニカを発売しこれも大ヒット。

このヒットの背景には、当時は販売促進に大きな力を持っていたテレビCM がありました。グループサウンズ、ザ・スパイダースのボーカル、井上 順やコント55 号の萩本欽一、さらにアンルイスなどのCM が話題となり、家庭内にコンパクトカメラが普及することを後押ししました。

井上 順の「ストロボ屋さん、ごめんなさい<ピッカリコニカ>」や「ピンボケさん、さようなら<ジャスピンコニカ>」などが話題となりました。

「ピッカリ」や」「ジャスピン」など、商品のネーミング」に使ったことばの力も大きかったのではないでしょうか。

その後私は広告代理店から広告制作のプロダクションへと転職、直後に担当したのはMINOLTA 株式会社、現在のKONICAMINOLTA でした。今振り返れば合併前の2つの会社に関わったことになり不思議な繋がりがあるのですが、その後のカメラ、写真との関わりは又の機会に。

この写真との繋がりが今日、写真にまつわる仕事を続ける原点だったのです。

※画像はKONICA C35、オートフォーカスKONICA C35 AFとさくらカラーのパッケージの水彩画です。
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